- 2008年5月 7日 23:28
- 日記
権力の周辺には必ず「阿諛追従の徒」が集まる。
これが「六邪」である。
失脚した政治家、経営者、高級官僚職などをみると必ず「六邪」という
「取り巻き」がおり、そのため「十思・九徳」を失い、
「兼聴」でなく「偏信」となり、終わりを全うできない十か条をそのまま行っている。
こういう点では、
人間も社会も、まことに昔と変わらないものだと思わざるを得ない。
「六邪」の言葉は常に耳に楽しく、潜在的願望をくすぐり、
それに耳を傾け続けていれば破滅だとわかっていても、
ついそれだけに耳を傾け、「偏信」となり、「兼聴」を失う。
そして失脚する。
帝王学P54より
「君の明らかなる所以の物は兼聴すればなり、その暗き所以の
物は偏信すればなり」と。
兼聴は多くの人の素直な意見に耳を傾け、その中から、これは
と思う意見を採用すること、兼信は一人の言うことだけを信用
すること。いわば諸情報、それにもとづく諸判断を耳にすか、
一方向だけの情報と、それとともに提供される判断だけを信ず
るか、その違いだけであるという。もっとも、多人数であっても
それが取りまきのイエス・マンだけなら、これは「偏信」にすぎない。
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